[政治・経済] 労働生産性の上昇と労働者への分配について
参議院選挙の結果が出た。
前回の選挙結果予測は根本的な問題点がいくつかあったようだ。
ひとつは、本当は無所属にカウントしなければいけない数を誤って、自民党や民主党に組み入れて計算してしまっていた。間違いを訂正しお詫びしたい。
選挙の結果とその分析を各紙ながめていると格差についての声、特に農村部での格差についての声が無視できなかっことが今回の選挙を大きく左右したのだな、と思った。
簡単に書くと、全体のパイが今大きくなっている(経済成長している)のに、自分の取り分のパイが小さくなり続けているということは許せない、ということなのだろう。
これは本質的には分配の問題であり、社会全体でどのような分配が適切かという人類の歴史上常に問題であり続け、未来永劫解決されることがないであろうテーマである。
このテーマは最近の私の心を捉えている。特に、資本が投下され労働生産性が向上し続けた場合に労働者への分配は上がり続けるかということについてかなり長い時間考え込んでしまう。
この問いへの私自身の現時点での答えは皮肉なことに、労働生産性が向上すればするほど、資本家の取り分は増え、労働者の取り分は少なくなり続けるようだ、ということなのだ。
これから、とてもナイーブな議論であることを承知で例を出そう。100の仕事を今まで100人でやっていたところを、これから1人で可能になったとする。たとえば今までおにぎりを人手で握っていた状態から、機械で握る方法が考案されたとする。それにより100倍生産性があがった場合を考える。
100倍生産性が上がったのだから、100倍給料をもらえるようになるのだろうか?
もちろん、そんなことはない。労働生産性の向上は機械(資本)の導入の結果であり、労働者の手柄とはいえない。
この場合、労働市場の需要と供給についていえば、労働への需要は減り、そして雇用への需要は増えることになる。となると、労働への対価は減るのが市場原理となる。
つまり、労働生産性が上がれば、雇用は減り、競争原理から労働への対価も減る。労働者への分配は減る。結果として、資本家と消費者に多くの利益が分配されることになる。
ここで強調したい点は、労働者の質・能力の違いというよりもその労働者がいる場によって、労働者の生産性は決定されてしまうということだ。つまり、良い道具を用いることができる労働者は生産性が高く、良い道具を使わない労働者は生産性が低い。
そして、労働者が得られる対価についても同じことがいえる。労働者の質・能力の違いよりもその労働者がいる場によって対価は決定される。高い対価を得られる自由でない労働市場にうまく入り込めた人は楽に暮らせ、そうでない人はたとえ行う労働生産性の高い労働であったとしても、競争原理により対価が決定される仕事であれば低い対価となる。
話が少しそれるがよく誤解があるので説明しておくと、労働生産性の高い仕事とは、クリエイティブな仕事を意味しない。むしろ、クリエイティブな仕事はとても労働生産性は低いだろう。
自動で製造が行われる工場の生産性は高い。機械がすべてを全自動で作り出す。機械はときおり壊れるので見守る人が数人必要だ。この数人の労働生産性は、とても高い。しかし、この数人の仕事内容はクリエイティブだろうか?全自動で作り出す工程をただ眺めている人をクリエイティブだという人はいないだろう。
現代という時代では、労働生産性が低ければ、競争で敗北してしまう。労働生産性が高ければ、労働者はすることはとても限定的で少なくなり、高い対価を払われる理由はなくなってしまう。それは、大企業が利益を独り占めするということへとつながる。
実は私自身の考えとしては格差の是正というのは政府の仕事ではないと思っている。それは個々の企業、特に利益を上げている企業が自発的に行う分配によって達成されるべきだ、という考えを私は持っている。しかし、その達成は難しいことも認識している。自発的に分配しようという動機は、自由競争主義的に労働の対価が決定されるという原理からは生まれないからだ。