後期高齢者医療制度とは

さて、後期高齢者医療制度とはなんなのだろうか?
現代の姥捨て山なのだろうか?
「老人は死ね!」ということなのだろうか?

正解はそうではない。

本当のところは、80年代の官僚が行った政策が間違っていたのをしぶしぶ認め、とれていなかったオカネを今さらながら徴収したいということなのだ。

しかし、実際のところ官僚は過去の政策が間違っていたことを認めることはできないし、過去にとれていなかった分を今から徴収するというような理屈を描くことができない。

そのようなタテマエと、ウラの事情との兼ね合いでできあがったのが現在の後期高齢者医療制度なのである。

年金制度の世代間格差という有名な議論がある。

ある計算によると、1935年生まれは、払った年金の 8.3倍を受け取ることができるのに対して、1985 年生まれは、払った年金の 2.3 倍しか受け取ることができない。

1935 年生まれは、現在 73 歳だ。つまり、後期高齢者医療制度でより多くの額を支払わなければいけない方々というのは、年金によって、若者よりもはるかに多くの年金を受け取ることができる世代ということである。

そして、高齢者が得をしている制度に退職金がある。経団連が実施している退職金・年金に関する実態調査結果によると 1992 年調査時点の 2638 万円がピークで、その後減少を続けている。

1992 年の調査ということは、現在 77 歳前後の人の退職金がピークであるということだ。彼らの受け取った退職金がピークであるということは彼らが他の世代に比べて比較的裕福であるということを意味する。

これほど歴然と75歳以上の高齢者が社会システム上優遇された世代であるとすれば、こんなに後期高齢者医療制度が批判を受けているのは、不思議に思える。その理由はなぜなのであろうか?

その理由は、これらの十分な福祉を受けることができるのが、75歳前後の方(以下、昭和ヒトケタ世代と記す)であって、それ以上の世代に対してはむしろ十分な人生を送れていなかった
という点にあろう。

1970年代の高度成長期によく聞かれた言葉に、「成長の果実を高齢者に」というフレーズがある。当時の自民党政権を擁護するわけではないが、その時点ではこれは合理的な判断であった。当時の高齢者というのは昭和恐慌・世界大恐慌の時代、「大学は出たけれど」というフレーズが流行した時代に青年期を過ごした世代である。そして、その後の太平洋戦争において、戦地に駆り出されたりそうでなくても非常にひもじい生活を余儀なくされた世代なのである。太平洋戦争期の日本国民の一日あたりの平均摂取カロリーは1800キロカロリーほどと推定されている。大正世代はかなりおなかを減らながら生きなければならなかったのだ。

この世代が昭和ヒトケタ世代に比べて、就職面・人生の質の点で、冷遇されていたことは間違いない。高度成長期には学園闘争にうつつを抜かした腹立たしい「戦争を知らない子供たち」である若者どもへの怒り、恨みも背景に、高齢者への高福祉制度を成立させることになった。

当時を今から振り返って判断すれば、高度成長期における年金制度は、軍人恩給などを利用して拡充させていくべきだったであろう。もしくは、永続させるような高福祉制度を成立させるのであれば、それに見合ったそして、昭和ヒトケタ世代などはその前の世代と違い、就職し年功序列制度を完遂することができた世代であるので、ここまで優遇される必要はなかった。

前置きが長くなってしまったが、優遇されなかった大正世代が十分な福祉を受けることができなかった点に制度の抜けがあり、それを過去の過ちとして制度を作ることができず、さらに料金徴収の簡便さといった運用上の課題を主に念頭において、一律に年金からの保険料の徴収という手段を使ってしまったことにこの後期高齢者医療制度の問題点がある。

本来であれば、後期高齢者医療制度というのは、若者が老人を支えないという趣旨ではなく、優遇された老人が優遇されなかった老人を助けるということを意図して生まれるべきであった。

そして、その趣旨が国民全体において、統一的に認識されるように十分に浸透させていれば、このような混乱にはならなかったであろう。

しかし、それは過去に政策決定上の過ちがあったことを認めることになる。過ちなどは決して、あってはならないことなのた。